日々新又日新 歴史編

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源頼家
(画像は源頼家 wikipediaより転載)

 おはようございます。9月11日の朝です。3日間、更新できませんでした。理由はですね。週末に開催されるアウトドア系のトレーニングに参加していたからです。


 昔から通っているコースなのですが、数年振りに行きたくなって行ってみました。久しぶりですが、みんな相変わらずでした。


 やはり自分が好きで通い始めたコースには刺激的な人が多いですね。みんな自分というものをしっかり持っていましたね。そういう人と一緒にいると気持ちがいいです。


 私がこの数年間働いた大企業の人達との人間関係はとにかく退屈でストレスでしたね。会話もマウンティングやそうでなくても自分の立ち位置を悪くしないように計算してばかりいる人達でした。


 もうすでに彼らとは縁を切りましたが、生涯、何にも挑戦をせずに安定した道を他人との比較で生きている彼らは逆に可哀そうな存在なのかもしれません。


 まあ、私の知ったことではありません。私は毎日好きな歴史を調べ、肉体的にはトレーニングをして精いっぱい新しい挑戦をして生きていきますよ。それが「真面目な人生」です。

目次



  1. 今日のできごと

  2. 雑記 -盛者必衰の理-


 

今日のできごと



 


頼家の墓
(画像は頼家の墓 wikipediaより転載)


 1182年9月11日、源頼朝の子でのちに2代目鎌倉殿になる源頼家が生まれます。北条政子の第2子になります。第1子はのちに婚約者を頼朝に殺されて心を病んでしまう大姫です。


 大姫については以前に書いているのでこちらも参考にして下さい(「2018年8月28日のあさ。大姫死去、平沼騏一郎内閣総辞職。」)。


 長男である頼家は武芸に巧みだったようです。1199年1月13日に父・頼朝が急死すると26日には二代目鎌倉殿となちます。


 わずか18歳の頼家では歴戦の御家人たちの統御は難しかったのでしょう。3ヶ月後には十三人の合議制が始まります。


 この十三人の合議制は北条氏を始めとする有力御家人達で構成されています。


 この合議制が成立した理由というのは頼家独裁を防ぐためというのが一般的な解釈ですが、評議の結果を参考にして頼家が判断を下す参謀本部的な機能であったとも言われています。


 しかし、御家人同士の争いが激しくなります。まず、頼家の腹心である梶原景時が幕府から追放されます。御家人達の恨みを買っていたようですね。


 さらに頼家の乳母の夫でもあり、舅でもある比企能員が北条氏の陰謀により殺されます。当時の「殺される」は一族郎党全てですね。


 程なく比企能員の娘との間にできた子の一幡も北条氏に殺害されます。こうした中で頼家は病に倒れます。


 比企氏や一幡殺害に頼家は激怒しますが、この頃にはすでに権力は北条氏に握られていました。頼家は伊豆の修善寺に幽閉されたのち暗殺されてしまいます。


 その後ですが、鎌倉殿は弟の実朝が継ぎます。武芸に秀でた頼家に対して実朝は文人肌だったようですが頼家の遺児公暁に殺害されます。


 公暁に言わせると「父の仇」だそうです。これにより源氏の将軍は3代で絶えてしまいます。以後は摂家将軍、皇族将軍が鎌倉幕府の将軍となりますが実権は北条氏が握ることになります。


 頼朝の死後、鎌倉幕府は御家人同士の争いで凄惨な事件が起こり続けますが、逆にいえば頼朝の存在の大きさが分かりますね。


 徳川家康が秀忠に跡を継がせたのちも大御所として諸大名に睨みを利かせていた理由も分かります。

 

雑記 -盛者必衰の理-




 今回は敢えてマイナーな源頼家を取り上げてみましたが武家政権やそれだけでなく権力の継承という観点で見ると興味深いですね。


 源氏の視点から見れば権力の継承の失敗ですが、北条氏から見れば権力の掌握の過程です。頼家自身の人となりが今ひとつはっきりしないのが残念ですが、ドラスティックに権力が北条氏に移行していく過程は壮絶です。


 特に北条政子はキーパーソンであるようですね。ここらへんもその内調べてみましょう。私は最近は鎌倉幕府がお気に入りですねw。


 最後にですが、数日間、更新を止めてしまった間も来てくれた方、ありがとうございます。また今日から再開するので興味があったら読んでみて下さい。

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